自転車でヨーロッパを旅して感じたこと

チェコの田舎道

ちょうど10年前の夏、私はヨーロッパを旅してきました。イスタンブール(トルコ)を起点に、ロンドンを目指して、主に中欧方面を3ヶ月半かけて廻ってきました。

途中イタリアまで流れてきたところで自転車を買い、以降はペダルを漕いで旅を続けました。自転車であてのない旅をするのが最大の目的だったのでした。自転車を手に入れたとき、既に半月ほどが経っていたので、ほぼ3ヶ月ほどの自転車旅行になります。

自転車を持って出なかったのは、単独で海外へ出るなど初めてのことだったので、そもそも旅行が続けられるのか全く自信がなかったためです。尻尾を巻いて帰国するかもしれないのに、揚々と輪行袋を担いでうちを出る気になどなれなかったのでした。まあ、おっかなびっくりと旅は続いて、パドヴァという北イタリアの町で念願の自転車購入を果たしました。

以降サドルに跨って道を辿ることになるわけですが、同時にはっきりと感じた大きな変化が一つありました。それは、道行く人の視線を男女の別なく感じることでした。

観光国のイタリアはそれでなくとも外国人は珍しくないし、観光とは無関係の土地でも、欧州諸国はどこも大勢の移民を抱えているので、旅行者だからというだけで注目されることはありません。また、本人はバックパッカーのつもりでも、自転車を購入するまでは、ザックではなく手提げ鞄だったので、現地の住民には、東洋系の移民とか不法就労者の類に見えていたかもしれません。

さてその視線というのは、賞賛と羨みの混じったようなものでしょうか。「その調子だ、きみ」「そういうのいいじゃない」と、聞いたわけではありませんが、まるで話しかけてくるかのようでした。こうした感情をイタリア人というのは、とても素直に現します。大げさに言えば、人生を楽しんでいることへの率直な肯定のまなざしです。日本では考えられないリアクションで、特にイタリアで顕著だったのかもしれないですが、多かれ少なかれ行く先々で感じた印象であります。

これはイタリアに限ったことですが、路上で出会ったサイクリストは(ほぼ全てロードタイプ)必ず声を掛け合います。例外はありません。ある日スプリンクラーの回る葡萄畑の中の道で手をクロスさせたシーンなど、出来すぎのような場面を今でも思い出します。

またとある田舎の駅前で自転車を停めて、休憩を兼ねて地図を覗いていたとき、後ろから声を掛けられました。振り向くと婦人警官で、反射的に「sorry」と言って立ち退こうとしたのですが、警官はなおも話を続けるのでした。ニコニコしながら「bici」(自転車)と言うのが聞き取れたので、注意や警告でないことを察して、日本からきて自転車で旅を始めたばかりだということなどを、通じたのかどうか英語で話しました。これも日本ではなかなか考えられない場面でしょう。

さて、先ほど3ヶ月の旅行と書きましたが、この間、クルマからクラクションをどのくらい鳴らされたと思われるでしょうか? ひょっとすると、マナーのよい欧州のことだから、まったくと言って無かったなどと思われるでしょうか。

実際は、「数え切れないほど」鳴らされたのでした。けれどもそのどれもは、擦れ違う際に前から鳴らされたもので、後ろから鳴らされたのは1度あったきりで、その後は皆無でした。つまり、道行く人たちが視線を送ってくれたように、ドライバーたちも、そうしてエールを送ってくれていたのです。

一方で、あちらでは高速道が無料のせいもあってか、自転車侵入禁止の区域にいつの間にか紛れ込んでしまうことが何度かあったのですが、たちまちパッシングライトを浴びます。

こうして、様々なレベルでサインが交わされる欧州の路上は、日本よりも格段にコミュニカティブな空間なのでしょう。信号待ちをしているクルマには、フリーペーパーを配る人がドアガラスをノックして廻っていたり、また、良し悪しは別として、イタリアでは信号など完全に無視して道路を渡るのがごく普通の光景です。これはクルマとの呼吸が合っているからできるもので、俄かに真似のできるものではありませんが、その意味では歩行者と運転手のコミュニケーションの産物と言えるでしょうか(クルマが都市部では十分に速度を落としていることも大きな前提でしょう)。

話を自転車に戻すと、ヨーロッパにおける自転車というのは、基本的にはレジャーやスポーツの一つなのでしょう。私達のように、交通まちづくりに関わっていると、自転車の積極活用を実践している先進地域として、欧州を眺めることが多いのではないかと思います。それは確実に輪を拡げているのですが、欧州人にとって自転車というのは、まず第一には余暇を愉しむツールであって、楽しんでなんぼのものなのだということを、いま振り返ってみても思うのです。

自転車を交通手段の一つとして積極的に取り入れる動きというのも、そうしたレジャーを基盤にした自転車受容の上に積み重なっているのだろうと思います。これに対して、日本人の自転車観は、著しく実用性に偏っているように思います。

こうしてヨーロッパの様子を話すと、「他所は他所」「余裕のある欧米と一緒にされてもしょうがない」と片付けられそうなのですが、交通まちづくりに関わる私たちは、こうした背景の違いをもっと知っておいてもいいのではないか、という気が私にはするのであります。(kog_hito)